11月 292013
 

2014年1月下旬から、井の頭公園の池の水が干上がります。これ、知らない人が見たら「天変地異の前触れ!?」なんてびっくりするかも知れませんね。

実は井の頭池では平成29年5月の開園100周年に向けて、池の水の浄化と外来魚を取り除くことを目的として、「かいぼり」を行います。「かいぼり」とは?

※追記:水抜きが行われた直後の池の様子を写真に収めてきました。
「かいぼり」で水が抜かれた井の頭池の写真を撮ってきた 投げ込まれた自転車も浮上

外来魚、水質悪化…「かいぼり」は池の大掃除

「かいぼり」は漢字で書くと「掻い掘り」。かつて、日本各地の農業用のため池では、農閑期の冬場に池の水を抜いて池底を天日に干し、堆積したヘドロや土砂を取り除いていたそう。現在ではこうした農業用ため池のかいぼりは少なくなりましたが、水質改善等環境整備の意味合いで各地の池で行われているようです。

もともと井の頭池は湧水量が豊富で池底が見えるほどに水がキレイだったそう。江戸期には水道水として活用されていました。しかし、戦後の高度成長期にお決まりの水質悪化、湧水量激減の影響により池の水は汚れ、在来生物は種類が減ってしまいました。

追い打ちをかけるようにブラックバス、ブルーギルなどが増殖し、現在では外来魚が池の魚の9割を占めるとか。井の頭公園の風景は美しいだけに、水面下でそんなことが起きているとは、少々悲しいですね。
井の頭公園 池 かいぼり
▲美しく水をたたえる井の頭池。この水の下には人知れぬ秘密が…?

池の底から一体何が出てくるのか…

今後、井の頭池では平成29年まで、年に一回「かいぼり」を行う予定だそう。

まずは2014年1月に第一回として池の水を抜き干上がらせ、ヘドロを取り除き池底を乾燥。併せて外来魚を取り除く「魚捕りの日」(1月25日・26日)を設定し、外来魚を取り除く作業を行います。この作業には多くのボランティアが関わるようで、地元民が井の頭公園の存在をもう一度考え直すキッカケとなりそうです。

それにしても、常に水をたたえてきた井の頭池の池底が姿を現すなんて、楽しみのような怖いような。下世話ですが池の底から様々なモノが発見されそうです。もしかしたら遠い昔の白骨死体(以下略)…

大都市の真ん中の空白スポットですから、もしかしたら世間があっと驚く大発見があるかも知れません。

▼追記:1月中旬の井の頭池の状態。着々と水を抜く準備が進んでいます。

▲何やら複雑な水抜き装置。神田川へと流れ出す直前の地点。


▲こちらは池の真ん中の怪しげな装置。どうやって水を抜くのかな。


▲ボートも陸上待機。

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8月 102013
 

川越蔵造りの町並み

相互直通運転によって東急東横線方面からの交通が便利になった「小江戸」川越。

神奈川県の人気観光スポット「鎌倉」に比べるとやや地味な印象もありますが、「蔵造りの町並み」は関東では珍しく大規模に古い町並みが残り、そのどっしりとした家並みは一見の価値ありです。近年、電線の地中化によって空がぐっと広くなり、遠くまで続く蔵の連なる景観は、江戸の町にタイムスリップしたような気分になれます(目の前の道を車がひっきりなしに走るのが少々残念ですが笑)。

「小江戸」川越の蔵造りの町は明治時代にできた!←えっそうなの

さて、先ほど「江戸の町にタイムスリップ」と書きましたが、厳密にいうと現在の川越の蔵造りの町並みは、江戸時代の建築がそのまま残っているわけではありません。これ、「小江戸」という言葉のイメージでついつい勘違いしてしまいます。そのあたりをちょっと解説してみましょう。

江戸の時代から栄えた川越の町でしたが、1893(明治26)年に中心街を焼き尽くす大火事が起こります。多くの家屋が焼失した中で、数軒の蔵造りの家が焼け残りました。そのうちの一軒、大沢家住宅(現存)を見た川越商人たちは、日本の伝統的建築である土蔵造りの耐火性能を見直すことになります。

もともと江戸からの舟運によって財を蓄えていた川越商人たち。同じ惨事を繰り返さないために、土蔵造りの防火建築によって川越の町を再建し始めます。そして商人らしく先進的というか柔軟な考えだったのが、伝統的な建築様式だけに固執せず、レンガや大谷石など新しい建材も使ったこと。商人たちは伝統を取り入れつつ、未来を見据えて家造りをしたのです。
川越蔵造りの町 建築
▲どっしりとした「川越スタイル」の建築。

というわけで、今も残る「大沢家住宅」が、蔵造りの町並み誕生のキッカケだったわけですね。現在の土蔵群は「大沢家」フォロワー(笑)。「なんだ、あの家並みは江戸からのモノじゃないんだ」とガッカリしましたか?

川越商人が残した「川越スタイル」の土蔵建築群

僕はこの話を聞いてむしろ、川越の町並みがグッと身近に、そして格好よく思えるようになりました。当時、東京中心部では西洋風のレンガ造りや石積みの建築が流行していましたが、川越の商人たちは敢えて日本の伝統的な建築スタイルを選択したわけです。しかも、新しい建材を受け入れるなど良いものは良いと認めて取り入れる、柔軟な姿勢を持って。もちろん、大沢家住宅を模範にしていますので、江戸当時の町並みにも近い景観が形成されていると思います。

関東大震災も東京大空襲もくぐり抜けた、この蔵造りの町並み。駅から少し遠かったこともあり開発が遅れ、結果として現在まで多くの土蔵建築が残りました。今や川越市民の誇りであり、「重要伝統的建造物保存地区」に指定されるなど、国の宝でもあります。

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6月 082013
 

■タモリ倶楽部の良企画 東海道うどん出汁の色の調査

少し前になりますが2000年放送のテレビ朝日系「タモリ倶楽部」で、東海道新幹線の各駅ごとのうどんダシを採集し、ペットボトルに入れてズラーッと並べるという企画をやっていました。

調査は東京からスタート。東京よりも小田原から豊橋あたりまでが最も色が濃く、同じ愛知県内の三河安城で薄くなり始めます。そこから岐阜県内にかけて徐々に薄くなり、関ヶ原を超えた米原で完全に関西風の薄い色の出汁に。深夜のバラエティー番組のお遊び企画とはいえ、とても興味深い調査でした。

汁が黒いうどん・東京
▲関西の人がひっくり返ってしまう東京の「黒いうどん」。
この写真は典型的な東京の立ち食い蕎麦屋で出てくる「きつねうどん」。ネギも白ネギです。
基本的に東京地方では蕎麦の「ついでに」うどんを出す店が多く、蕎麦向きの甘辛い出し汁も兼用に。

■江戸時代から変わらない味の東西対立

江戸末期の生活を知る貴重な記録である「守貞漫稿」(1867年)の中には、京坂の人が江戸の味を「たるし」(甘ったるい)と言って嫌っているという記述が残っています。すでに江戸の頃から現在でも見られる味の東西対立が存在していたわけです。

最近では「秘密のケンミンSHOW」という番組で、地方の食文化の違いを取りあげたりしています。日本列島は狭いようで広い。

ではなぜ、江戸では甘辛い味が定着したのでしょうか。
それは、江戸という都市の成立過程が関係しているようです。

なお、この記事は「江戸グルメ誕生〜時代考証から見る江戸の味」(講談社・山田順子著)を参考にしています。この本を書いた山田さんという方はドラマ「JIN -仁-」など多方面の時代考証を手がける「時代考証家」です。さすがにテレビに関わっている方だけあって、文章は要点をついていてわかりやすく、楽しんで読める江戸グルメ考察本です。おススメ。

◎理由1 急造都市・江戸男だらけのむさ苦しい都市だった

江戸の町が本格的に建設され始めたのは1590年頃。これに合わせ全国から多くの建設作業員が集められました。また、新しい都市に希望を求めてやってきた多くの職人や商人、それに江戸への参勤のためにやってきた武家関係の人々をあわせて、初期の江戸は80万人ほどの人口を抱えていました。そのほとんど、80%は男だった(そんな都市嫌だ!)というのですから、大変むさ苦しい都市でした。

労働者は汗をかくので塩辛い食事を好みますし、武家でも戦国時代の気風が残り、塩辛い食事が好まれていたようです。また、人口の急増により野菜の生産や魚の確保がままならず、味の濃い少量のおかずでご飯を大量にかき込む食生活をしていたようです。こうして江戸では「濃い味」が好まれるようになっていきます。

◎理由2 料理は男の仕事だった

江戸時代までは料理は主に男の仕事でした。日本では古来、料理をつくって食べるという行為は神との饗宴という意味を持っていました。そのため、いわゆる「不浄」であるとされていた女性は神の食べ物を触れなかったのです。(こういう話は、女性の方はあまり気分のいいものではないかも知れませんが。)

もちろん庶民の日常の煮炊きくらいは女性がしていましたが、屋台等の外食文化を含めた江戸の食文化は男性料理人が牽引していたとの事。現代のラーメン二郎やスタ丼よろしく、オトコの花園・江戸のオトコメシはガッツリ、濃い味へと向かいます。

ラーメン二郎
▲東京発祥の塩辛い料理代表「ラーメン二郎」。店内はオトコだらけ。江戸の遺伝子か。

◎理由3 関西の薄い醤油が貴重品だった

江戸の当初は江戸近郊で醤油の生産は行われておらず、醤油はもっぱら大坂方面から仕入れていました。輸送費等コストにより醤油は高級品であり、庶民の食事の味付けは塩と味噌で塩辛く、が基本でした。

やがて四代将軍・家綱の時代に、江戸近郊でも醤油が生産され、江戸にも安定供給されるようになります。この頃には江戸の庶民はすっかり濃い味、塩辛い味に慣れ親しんでおり、それに合わせて関東の醤油も「塩辛いけれどすっきり」した現在の濃口醤油のスタイルへと姿を変えます(京坂の醤油は現在の溜まり醤油のような味だった)。

それと、「甘辛い」の甘いの部分。江戸中期に東南アジア方面から輸入されるようになった砂糖は、やがて価格が安定した事で庶民に定着し、料理になくてはならないものとなります。砂糖と醤油のウマさに江戸市民は目覚めてしまうわけです。

■砂糖の輸入、鰹節の利用

とまあ、どう考えてもコッテリ、ガッツリな味が誕生する素地があった江戸。こうした濃いめの味付けに負けないように、出し汁も植物性の「グルタミン酸」を出す昆布ではなく、動物系の旨味「イノシン酸」を放出する鰹節を使用するようになります。

ざっと駆け足ですが、江戸が急造都市だったからこそ、甘辛い濃い味の食文化が定着したと考えられます。

前述の「守貞漫稿」の中で著者の喜多川守貞はこう言っています。
(「江戸グルメ誕生~時代考証から見る江戸の味」より現代訳を引用)

「馴れてしまえば旨いと言い、馴れなければ不味いと言って、
自分の馴れで味の良し悪しを論じるのはいけない」

これこそ至言。先入観で他地域の味を「不味い」と決めつけないで、何でも面白がって食べてみる。きっとその味には地方それぞれの歴史、文化が背景に隠れています。その体験の蓄積が、食生活をより楽しく豊かにしていくのでしょう。

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